スポット溶接・精密溶接専門こだま製作所の「地場が育む、職人道」です。

こだまの特長

地場が育む、職人道

大阪市のモノづくり文化の歩み

大阪市“生野区”では江戸時代より農家の副業として眼鏡・碁石などのものづくりが盛んでした。
明治期を経て、大正末に都市成長の著しい大阪市に編入され、 生野区におけるモノづくりはさらに・・・・

レンズ産業発祥の地生野区(田島町)

レンズは用途に合わせて一枚一枚磨き上げるもの。 レンズ職人は「度数がわかるのに三年、一人前の技術をつけるのに七年」と 田島では言われています。(1983年 大阪新報掲載記事より) 超耐衝撃性偏光レンズの開発に成功されて今や世界的シェアを誇るレンズメーカーも誕生しています。

そして生野区は 建築金物、照明器具などの金物製作の町でも広く知られております。

弱電企業の大企業発祥の地

大正にはいり金属中心の製造業が目まぐるしく発展しました。 その要因となる大企業の誕生

松下電器産業(現パナソニック) 創業の地 (あじろ・けんじろう 郷土史研究家)より)

松下幸之助は大正六年の六月、それまで勤めていた「大阪電燈株式会社」を依願退職し、独立の道を歩み出した。その頃住んでいた、“猪飼野”の借家を作業場に改造して、みずからの考案になる蕫松下式ソケット﨟(=実用新案第四二一二九号。二股ソケットではない。それはもう少しのちのことである(1))の製造を始めたとされている。 それは、二十二歳の青年の型破りな、常識的に考えればほとんど成算があるとは思えないような無謀な独立であった。しかし、その“無謀”がなければ、今日の“世界の松下電器”の存在はなかったわけである。
その辺りの経緯は数多くの文献の随所に記述されており、また『大阪立身―小説・松下幸之助』(邦光史郎著、サンケイ新聞社出版局、昭和五十年)、『望洋―井植三兄弟』(同著、日本経済新聞社、昭和六十年)その他の小説などによっても、そのあらましを知ることができる。
さて、その独立の地、すなわち松下電器発祥の地が“大阪府東成郡鶴橋町大字猪飼野”であったことは、松下の自著『自敘傳』(松下電器産業、昭和十七年)に、 「工場は僕の住んでゐる平屋(当時猪飼野に居った)……」 とあることによって明らかである。

三洋電器(現パナソニック) 創業の地 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

松下幸之助の義弟で松下電器産業(現・パナソニック)の創業にもかかわり、同社の専務取締役であった井植歳男が、GHQによる公職追放指定に伴い、1946年(昭和21年)に松下電器を退社。翌年2月1日、松下幸之助より、自転車用発電ランプの製造権と加西市にある松下電工(現・パナソニック電工)北条工場(現在の「イオンモール加西北条」敷地)を譲り受け、個人事業「三洋電機製作所」を創業し、自転車用ランプを製造(当初は松下電器が三洋電機の名前を併記してナショナルブランドで販売[1]。のちに直販化)。松下電器産業の後藤清一も創業時に工場長として参加(後に副社長)。

1950年(昭和25年)、三洋電機株式会社設立。会社のマークに、源流企業の松下電器の「ナショナルマーク」類似の、円形に電気のスパークとサンヨーロゴをデザインしたものを採用。社名は太平洋・大西洋・インド洋を意味し、世界で活躍できる企業になるという意志が込められている。1953年(昭和28年)に開発した噴流式洗濯機が大ヒットし、一躍有名になった。2011年(平成23年)に株式交換によりパナソニックの完全子会社となった。

SHARP 創業の地 (WEBサイト トップメッセージより)

シャープがエレクトロニクス関連の事業を進めるようになったきっかけは、関東大震災でした。1912年に19歳で独立した創業者早川徳次は、金属加工の技術をもとに1915年に早川式繰り出し鉛筆(今日のシャープペンシル)を発明しました。海外から大きな注文が入り、事業は順調に進んでいましたが、1923年9月1日に東京を襲った関東大震災によって、シャープペンシルの工場は焼失、早川は最愛の妻と二人の息子を失いました。

再起を期した早川は大阪に移り、金属加工の技術を生かして鉱石ラジオの開発に取り組み、日本で初めて製品化に成功。
その後も国産初のテレビや世界初のオールトランジスタ電卓などを開発し、シャープは総合エレクトロニクスメーカーへと発展しました。

船井電機様 創業・設立の地

1961年8月 (会社沿革より)
大阪市生野区に資本金20,000千円にて船井電機(株)を設立。

大企業の発祥地をはじめ製造業の町として発展したのは・・・

・独立性の高い人材が多かった事。いまでいうベンチャースピリッツでしょうか 進学諦め就職といえば近くの工場といった風潮、そして独立開業。そこにも親方をたてる 道徳的ルールは 「のれん」分けといった商人の町のなごりも残っていたように思えます。

・材料卸も活性かされてきておりましたのであらゆる材料入手が 安易に出来た事

・低い投資で設備が購入できた要因として中古機械販売業社の続出。特に日本唯一の中古機械販売基地ともいえよう東大阪機械団地も大きな要因の一つだと思われます。

~そんなルーツを経て大阪市は製造業としてのあらゆるノウハウの蓄積と 人材を 生み出してきました~

近年、大阪市ではAV機器を始め、自動車部品・車両・航空機部品・人工衛星部品・半導体製造装置、各種抵抗体関連と幅広い分野の製造が行われています。中小企業においてはモノづくり文化の中で培った内発的公共性をもとに、今、またあらたな「道」を創りだそうとしています。